ヘナは世界を救うのか 3

2025.6





前回、わたしはヘナについて、いくらか蘊蓄めいたことを
これでもかと並べてみせた。言葉の上では、ずいぶんと知っている風を装った。

しかし、無知なる自分を、知識でもって覆い隠そうとする
いじましい試みでしかありませんでした。


そして、実態というものは、まるで濡れた石の上に立つように、足元が覚束ない。
実感など、蜃気楼のようなものだった。
どれほど言葉を重ねても、空虚で、むなしく、何も掴めてはいなかった。


わたしは、とうとう決心したのでありました。
ヘナという、この曖昧模糊とした存在に、真正面から
強く、強くアプローチせねばならぬと。

そこで、鈴木大拙先生の言葉をかりるのであれば


花を知るには花になるのだ。
一片の花となりきって、花となって花を開く。
花となって太陽の光を浴び、
花となって雨に打ち濡れる。
これができてはじめて、花が私に語りかけてくる。
その時、私は花のいっさいの神秘を知る。
花のいっさいのよろこびと苦しみを知る。

この「花」を「ヘナ」に置き換えてみたらどうだろうか


ヘナとなり太陽の光を浴び
ヘナとなり雨に打ち濡れ
ヘナとなり収穫され
ヘナとなり粉末状になり
ヘナとなり出荷され
ヘナとなり水で解かれペースト状になり
ヘナとなり頭髪に塗られる
そこでヘナのいっさいの神秘を知り、ヘナのいっさいのよろこびと苦しみを知る。


果たしてそんな事が可能であるのだろうか。
愚図愚図していても何も始まらないぬ、
わたしはヘナをやる。
わたしがヘナを実行する。